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ピンチをチャンスに
明けましておめでとうございます。最近のマスコミ報道を見ていると、年が明けてめでたいのかめでたくないのか解らなくなるほど悲観的な話しが多い。確かに昨年後半、記録的な金融危機に始まり世界的に経済後退の嵐が吹き荒れた。特に、11月以降は日本の製造業でも自動車の大幅な減産で、工場の稼働率が大きく低下している。今年も厳しい状況で推移することが予想されるが、皆が口を揃えて「大変だ、大変だ」と叫んでも何も始まらないのではないか。こんな時こそ「国も企業のトップも強烈なリーダーシップを発揮して、国民や社員をリードしてもらいたいものだ。」とは言っても、今回のようなあまりにも急激な変化はさすがのトップも「想定外」であったろう。他力に頼るだけでなく、ここは一つ我々が今年1年何をすべきかを考えてみたい。
こういうときは、「温故知新」を活用するのも一つの手である。長いものづくりの歴史を振り返ると、必ずしも順風満帆で今日に至ったわけではない。私のいるダイカスト業界の歴史(ダイカストが発明されて170年ほど、鋳物の歴史に比べると3%程しかないが)に於いても、幾度もの試練があった。日本でダイカストの商業生産が始まったのは、1917年(大正6年)である。当初は、低融点の鉛、すず、亜鉛などの合金であり、強度も低かったため機器部品には向かず採算ベースには乗っていなかったようだ。
転機は、アルミニウム合金ダイカストが登場してからで、1920年代後半にコールドチャンバーダイカストマシンが輸入され、カメラ、蓄音機、電話機、扇風機などの民需品に使われ始めたことによる。しかし、1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことに端を発した金融恐慌が世界中を駆け巡り、日本経済も大混乱となった。そんな中でも、当時は、画期的な新技術であったアルミニウム合金ダイカストは脚光を浴び続け、新たにダイカストに参入する企業も多かった。技術革新が不況を乗り切った良い例であろう。
その陰には、国際情勢の緊迫による軍需依存が進みつつあったのも事実である。ダイカストもご多分に洩れず1930年以降はガスマスクを始め、航空機関連部品(エンジン部品、計器部品 など)や自動車部品などの軍需品の生産が加速した。1935年(昭和10年)のダイカスト生産量は、推計約500tであったが、第二次世界大戦が始まると急速に増加して1942年(昭和17年)~43年(昭和18年)にかけては約2,400tと推定される。しかし、1944年(昭和19年)~45年(昭和20年)には、ダイカスト企業の多くが戦災し壊滅状態になっている。
戦後,ダイカストは大きな需要先であった軍需を失ったが、箸、スプーン、下駄、弁当箱、戸車などの日用品を手がけながら民需品の生産を開始している。1947年(昭和22年)には、まだ焼け跡が残ってはいたが、日本橋の白木屋で、日本初のダイカスト展示会が開催された。ダイカストの需要喚起を促すべく展示会だったが、戦後の混迷期は、なかなか脱することができず、生産量は1950年(昭和25年)に1,224tと最も落ち込んだ。しかし、二眼レフカメラの爆発的ヒットや朝鮮戦争特需を契機に息を吹き返し、1954年(昭和29年)には5,351tに至った。
その後は、高度成長期に入り自動車、電機製品等々への用途が拡大し、1972年(昭和47年)には203,426tと急速に増加した。しかし、翌年1973年(昭和48年)の第一次、1979年(昭和54年)の第二次オイルショックが起こり、日本経済は停滞を余儀なくされた。そのたびに、日本は技術力を駆使して省エネルギー、省資源化をはかり、石油の消費抑制とエネルギー源の多様化に取り組み、国際競争力をつけてきた。一例に、日本車の燃費向上技術や軽量化技術などが挙げられる。それらの新技術開発が、今日の日本の経済を支えていると言っても過言ではないだろう。1991年頃に始まったバブル崩壊に伴い、日本は空白の10年を向かえたが、日本の技術力は、この危機をも乗り越えることができた。
また、はからずも“Black Monday”から80年後の今日、アメリカ震源の経済危機が世界を震撼させているが、これまでに培った日本の技術力を活かして、さらなる技術開発により再びこの危機を乗り越えることができるものと信じる。加えて世界的な自動車産業の危機は、自動車以外への新たな市場(例えば地球環境保全産業や農業・漁業などの食料生産産業といった分野)への展開をはかるチャンスとも言えるのではないか。さらに、今こそ人材教育に力を入れ、製造現場で言えば、単能工から多能工化への変革、開発部門なら専門能力の高度化など、取り組むべき課題は多い。来るべき2010年代に向けて力を蓄える絶好の年と考えてはいかがか。
JAN.5.2009