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リレーエッセイ

銅像の品質保証

(財)工業所有権協力センター 吉田 敏樹

「つべこべ言わずに原稿を書いてください。」と言われて「ハイハイハアイ」と返事したが、依頼状を見ると「リレー・エッセー」で、しかも2月ではないか、お正月や4月あたりなら何かと話題も多かろうが、2月は冬枯れで書きにくい。「スメルシュのインボーだ、“低”額給付金サギだ、オレはオブザーバーで、書く義務ハナイ」とワメきたい(促音や撥音をカタカナで書くのは二葉亭四迷の頃からの流行らしいが、私が物心つくまで見かけた)が、生活苦に喘いでいるところに稿料代わりの図書カードは、干天の慈雨である。なんとしても書かねばなるまい。
 以前の図書券は、印刷が複雑でカードより高級な気がした。もっとも、私としては○“ー○券のほうが好ましいが、贅沢を言ってはいられない。○“ー○券はすぐ無くなるが、図書券はなかなか消費しないのはなぜであろうか。
 ところで、2月である。「時しも頃は如月の~」という長唄は勧進帳である。(「勧進帳」は歌舞伎である。「安宅」ならば能である。この長唄は大薩摩がかりという調子らしいが、こんなことにこだわっていてはさっぱり先に進まない。→下記)
 観光案内をみると安宅の関跡には銅像がある。小さな写真ではっきりしないので、ネットで調べると「歌舞伎役者のだれそれをモデルに~」とあって、弁慶と富樫がいる。義経はすこし後でできたらしい。勧進帳はどうせ作り話で場所もインチキだから、ここでなくて鳥居坂か葺屋町のほうがふさわしいと思う。お江戸町内なら我が勢力範囲だから。
 栃木県の某「道の駅」に二宮尊徳の銅像(薪を背負って本をよんでいるおなじみの金次郎さん)がある。お腹のあたりに介在物があったらしく錆が流れているのを見つけたので、「不良品だ」と言いがかりをつけようとしたが、しばらくしてまた行ってみたら補修してあった。
 鋳造の分野に「美術、工芸鋳物」というのもたぶんあるであろう。銅像の鋳造技術の詳しいことは老子鋳造所を見学してもあまりわからなかった。銅像の品質保証というのもよくわからないが、鋳造工学会関東支部だよりの文章の話題としてまんざらかけ離れているわけでもあるまい。そこで、これにしようと思った。(赤提灯でビールにするか、酒にするかではこんなに迷わない)
 ところが、せっかくここまで来たのに、さっきの観光案内をパラパラめくっていると木曽義仲の写真を見つけた。(余計なことをするものではない)
 実盛の首を抱えて悲嘆にくれる姿である。これも小さな写真だが、安宅の関跡の弁慶・富樫・義経の像よりこちらの方ができが良いように私は思う。しかし、別の角度からの写真では傍らにもう二人、まん中に兜がある。兜がはなはだ目障りだが、もし多太神社がスポンサーならば仕方がないのかもしれない。控えている一人は実盛を討った手塚太郎光盛であろうと思う。
 順序からいうと、実盛が討たれたのは寿永2(1183年)年6月1日である。(髪を染めたのは前の日かもしれない)義仲の馬が近江の粟津で泥田にはまったのは翌年正月20日である。義経が弁慶に殴られたのはその2年か3年後(史実ではないがこのころと推定)である。1、2年で状況は激変している。現在の経済変動よりも激しい。
 安宅の関跡と首洗池には銅像があるが、義仲の最期の地はどうなっているか。小松の粟津ならわかるが、近江の粟津ってどこ?これもネットでみると馬に乗った立派なものがあるらしい。伊達政宗の銅像と似たようなものであろう。こういう義仲像はおもしろくないと思う。悲劇の旭将軍であれば、今井四郎兼平を探している最後の表情を見たい。
 上野公園の西郷さんは高村光雲の作である。(光雲が自分で杓をもって注湯したわけではないだろうが)西郷さんは顔かたちが残っていたであろうが、楠木正成には苦労したらしい。苦労ついでに西行の像も作ってもらいたかった、という人がいるが、義仲も光雲の手になる銅像があってもよかったのに、と思う。頼れるのは作家の感性だけだから。
 われわれが見るのはできあがった銅像で、作者が作ったものを直接見るわけではない。できた銅像が原形にどれほど忠実であるか、作者は比べているのだろう。複数鋳造すれば、良いもの悪いものもありそうな気がするが、鋳物師の仕事とは妙なこともあるらしい。
 結局関東支部との関連はない文章になりそうである。支部だよりに「鋳物用語」の欄があるのを思い出したので、罪滅ぼしに以前会誌に書いたハバキ(脛巾)を歌舞伎「勧進帳」からもう一度引用しておこう。
富樫左衛門(安宅の関の関守):「足に纏いし脛巾は如何に?」
弁慶:「胎蔵黒色の脛巾と称す」
(つまらないことによく屁理屈をつけて議論できるものだ、ということ)
安宅の関:歌舞伎勧進帳で、今の石川県小松市安宅にあった関所、今は石川県指定史跡。

  • 脱線ばかりで長くなるのを心配して記述を省略したら、わかりにくいところが多くなった。念のため蛇足だが「時しも頃は如月の」の前は「旅の衣は篠懸(すずかけ)の~」である。(本文も含めて、ご存知の人にはなんの役にも立たない文章である。)
  • 義仲の傍らに控えているもう一人は樋口次郎兼光。(実盛の首を洗ったのはこの人)
  • 市川團十郎(九代目)は明治36年に没するまで弁慶役を他人がするのを許さなかった。彼の家が日本橋葺屋町にあった。(現在何が建っているか調べてない、次も同じ。)安宅の関跡の銅像は市川左団次が富樫役である。
  • 明治天皇は麻布鳥居坂の井上馨邸の仮設舞台でミニ歌舞伎を見た、明治20年である。このとき勧進帳も上演されたが、役者が緊張の極みで演じたのに対して天皇の感想は「オモシロカッタ」という程度だった。
  • 斎藤別当實盛の話は平家物語に「實盛」の章がある。高等学校の古典の教科書にあるかもしれない。多太神社の兜は義仲が実盛を悼んで奉納したもの。(「寄進」と「奉納」の違いがよくわからない。「奉納相撲」というから物品は「寄進」で作業は「奉納」だろうか。しかし、「恩人を殺したのでその兜を《寄進》する」とはなんとなく書きづらい。)芭蕉:無残やな 兜の下のきりぎりす
  • 戦国武将の肖像がどの程度ホントらしいのか知らないが、ヨーロッパで政変があると銅像がよく引き倒される。あとはスクラップであろうか。この項ぐらい文献をあげておこう。
    :高須茂 日本山河史 角川選書 昭和51年
  • 上記要所の文で「ということらしい。」を省略した。私の蛇はムカデ、ということらしい。