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昔の記憶
橋 本 一 朗
遠くで地鳴りがかすかに聞こえる。周りは白銀の世界。じっと耳を澄ます。音がだんだん近づいてくる。地鳴りが地響きになった。そして轟音と共に200m先のカーブから目の前に黒い物体が飛び込んでくる。一瞬に全身全霊を集中し、NikonFのシャッターをきる。その物体は、地面に穴を掘り身体をうずめた僕の横1mの所を猛烈なスピードで通り過ぎる。僕の身体はその物体の巻き上げた雪に埋もれている。
しばらく動けない。何分経っただろうか。その轟音ははるか彼方に遠ざかり、あたりには何事もなかったかの如く、静寂が戻った。北海道函館本線、銀山駅から約2km、然別方面に下った名も無き場所。1969年。時は2月。厳冬。
そして、1週間後。納戸を改造した暗室に入る。フィルムはKodak TRI-X。手探りでパトローネからフィルムを取り出し、現像タンクに入れる。心臓が高鳴る。写っているかな。
現像液D76は2倍に薄めた。液温28℃。OK。毎分10秒タンクを攪拌。9分。現像液を捨て、定着させる。タンクからネガを取り出し、乾かす。明かりを点ける。
ネガを見る。
どのコマだ。あの時の1枚は…。
震える手で引き伸ばし機にフィルムを据える。オレンジ色の灯りの中、印画紙に投影する。10秒。印画紙をピンセットで挟み現像液に浸す。現像液の中で印画紙を泳がせる。絵が浮き出てきた。
定着液に移す。酢酸のツンとした匂いが心地良い。灯りを点ける。そこにはあの1枚が。雪に埋もれた僕から生まれた1枚があった。
それから40年。
「この写真はね、こうして線路の横に穴を掘って…..。昨日の事の様に覚えているんだよ。」身振り
手振りで息子に説明する。
「撮ったあと1週間、写真を現像するまで、どうなっているか分からないんだよ。その1週間の長い事ったら…。でも、この時の気持ちは忘れ難いんだよなあ。」
「フーン、デジカメなら、連写した中から1枚選べばいいんだよ。撮ったらすぐ見られるし、要らないのは消しちゃえばいいし。昔はのんきだなあ。」息子は言う。
そして僕はひとりつぶやく。
確かに便利な世の中になったかもなあ。でも、そんな簡単に撮れた写真は単なる記録だろ。そんな記録は、果たして記憶に残るだろうか?僕の人生の記憶に…。
(終)