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「五街道をあるく」 夫婦二人旅
(その2)開国の舞台となった神奈川宿のこと
神奈川宿は、当初は江戸から二番目の宿場であったが、元和九年(1623)に川崎宿ができてからは三番目の宿場となった。同宿は海に面して旅籠が並ぶ長い宿場町で、現在の京急・神奈川新町駅横の神奈川通り東公園(長延寺跡)から、青木橋を経て首都高速三ツ沢線下の沢渡公園(勘行寺辺り)までの3.5キロにおよぶ。
神奈川宿には神奈川本陣と青木本陣の二軒の本陣があり、神奈川本陣は東本陣、通称石井本陣とも呼び、滝の橋を境に川崎寄りにあり、西の青木本陣は通称鈴木本陣、浜本陣とも呼ばれ滝の橋先の海側にあった。
神奈川宿には船着場もあり旅宿だけでなく、商家も多く大いに賑わいをみせた。海辺の猟師町(魚師)にはいけすも設けられ、江戸城に新鮮な鯛を上納する役目を担っていたといわれる。
また台町付近は神奈川台とも呼ばれ、眼下には海を望み、西側には富士を眺める景勝の地であった。
『東海道中膝栗毛』にも「ここは片側に茶店軒を並べ、いずれも屋敷二階造り、欄干つきの廊下桟などわたして、浪打際の風景いたってよし」と、その風情が描かれている。
東海道五十三次之内 神奈川・台之原
(安藤広重の絵より)
台町の急坂にかかると、街道筋にはずらりと茶店が軒を並べる。波打ち際の景色を見ながら、飲食が楽しめた。今はすっかり内陸に追いやられて海は見えず、台町という地名を残すのみである。
現在の台町の坂 (横浜駅西口近くの高台)
かつては茶店が立ち並んでいた。マンションが立ち並び昔日を偲ぶすべもない。写真、左手手前の料亭田中屋だけが、江戸時代から今なお営業を続けている。
この宿が全国の注目を浴びるようになったのは、幕末の安政元年(1854)にアメリカ合衆国のペリー提督が来航し、横浜で神奈川条約(日米和親条約)の交渉の拠点となってからである。
アメリカ施設との直接交渉は、外国人との接触を避けるため僻地の横浜村(現在の中心地)で行われ、幕府側の使節は神奈川を宿舎として、横浜まで船で出向いて行われた。
その一年前、初代アメリカ総領事ハリスは伊豆下田から江戸に向かっている。 安政四年(1857)11月28日、当時の神奈川宿の様子をハリスは次のように書き記している。少し長いが、非常によく当時の神奈川宿付近の様相を記しているので引用する。
午前七時に藤沢を立った。江戸に近づくにつれて、次第に平野が広潤となり、道路は非常に気持ちがよい。東海道は小田原から全く海岸に近く走り、相模半島を横切るところが海から遠のいているだけだ。 |
-西川武臣(横浜開港資料館調査研究員)の資料より-
翌年の安政五年(1858)には日米修好通商条約が結ばれ、また翌年には横浜開港となり、日本は次第に開国・開港への道を歩み始めていった。
条約の締結にともない神奈川は開港されたが、外国人の殺傷事件が頻発したため幕府は台町など二ヶ所に関門を設置し、対策を講じたが、宿場という繁華街であることから、港も横浜に変更された。
神奈川には奉行所が置かれ、宿場内の寺院が各国の領事館に当てられることとなった。アメリカは横浜への変更は条約違反であると抗議したが、神奈川の海は浅く港としては横浜の方が優れていた。結果的には横浜が開港され、神奈川は文久三年(1863)閉港となる。
かつて海辺の宿場町であった神奈川だが、開国の歴史を秘めた寺院がいまも並び、台町の坂にはマンションが立ち並び昔を偲ぶことはできないが、広重の絵そのままの傾きをみせている。
(つづく 次回は遠州・白須賀宿)