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「五街道をあるく」 夫婦二人旅
(その3)遠州最後の小さな宿場町・白須賀宿
東海道の15回は99年11月27日、関所のあった新居宿から潮見坂を上り三河の吉田宿(現在の豊橋市)までの22キロを歩く。新居町からの東海道は山すそを通り、新町の町並みに入る。左手に国道一号線が走り、その先には遠州灘の海原が望める。
遠州最後の宿、白須賀の名も「白い砂州の上に開けた町」という意味で、宿場ははじめ潮見坂下の海辺の元町にあった。ところが宝永四年(1707)の大津波によって壊滅的被害を受けたため、翌年坂上の天(てん)伯(ぱく)原(はら)に移り、それからは坂の上が白須賀宿と呼ぶようになった。
白須賀は小さな宿場であったため、昔の大名行列はここを素通りし、東は浜松・舞阪に、西は御油・赤坂に泊ることが多かった。しかし備前岡山の城主・池田綱政はよくこの白須賀に宿をとった。池田綱政はかねてから観世音を信仰していたため、道中でも観世音が本尊の寺を決して素通りはせず、この蔵法寺にも必ず参詣したといわれる。
宝永四年(1707)のある日、この白須賀に泊まった夜、綱政の夢に観世音が現れて「深夜かならず津波がくる。早くこの地を立ち去るように」とのお告げを信じた綱政は早々に家臣たちを起こして宿を引き払った。ところが数刻後、突如宿場は大津波に襲われ全滅してしまった。綱政が観世音を信仰していたお蔭で、命拾いしたという話が残っている。
その蔵法寺の先を直角に折れ潮見坂という急坂を上る。いままで平坦な道ばかり歩いたせいか、坂道は足にこたえる。ようやく坂を上りきった左側に潮見坂公園の立て札があった。国道一号線が急カーブを描いているのが見え、その先に遠州灘が広がっているのが遠望できた。
坂を上りきった旅人たちは、一息ついて汗を拭いながら思わず振り返ったことだろう。眼下には東西七里の遠州灘が広がっている。潮見坂の由来でもある。坂の上から東海道を下ってきた旅人たちが、富士山をはじめて目にする場所でもあった。
安藤広重 東海道五十三次之内
「白須賀宿・汐見坂之図」
潮見坂の急坂を上った公園より遠州灘の展望
(99.11.27)
ここから、ほんの数分で白須賀宿に入る。鉄道が鷲津を迂回しているためか、どことなくひっそりとしている。ほとんど江戸期のままだといわれる細い道の両側には、宿場の雰囲気が残されている。
白須賀宿を過ぎて東海道は国道一号線と合流する。坂を下り小さな境川を渡ると川向こうは隣国・三河である。伊豆、駿河、遠江と長かった東海道23宿の静岡県を通り抜けて、いよいよ三河の国に入る。
ここを境に赤土の地肌が現れてきて、黒い土の東国と地質が全く変わってくる。別の世界の始まりを告げているようである。
(つづく 次回は中山道最大の難所・和田峠を越える)