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「五街道をあるく」 夫婦二人旅
(その4)中山道最大の難所・和田峠を越える
中山道の和田宿から、次の宿場の下諏訪へは約21.5キロ、その間に標高1531mの和田峠が立ちはだかり、道中最大の難所となっていた。
和田宿には前日、芦田の金丸土屋旅館に宿をとり、松並木で有名な笠取峠を越えて長久保を経由する13.5キロ。わずか4時間余りで着いたため、和田宿の本亭旅館に荷を預け、平成5年に復元された和田宿の本陣や、中山道歴史の道資料館・河内屋を見学する。また、和田宿では最近発掘された高台の温泉「湯遊の里」につかり疲れをいやすこともできた。
和田宿では脇本陣の翠川の向かいにある本亭旅館に泊る。「本亭」は江戸時代の元庄屋であり、入口には「中山道和田宿旅人御宿本亭」の看板を掲げ、建物は連子格子の旅籠らしい立派なもので、西隣の酒屋は白壁の土蔵が街道に面しており、宿場の雰囲気を漂わしている。
翌日は和田峠越えのため、旅館で用意して貰った朝食のにぎり飯をもって早朝6時半に出発する。和田峠は明治二十一年(1888)信越本線の開通とともに交通が途絶え、宿場は衰退した。その後、上諏訪から和田峠を越えて丸子に抜ける道路が整備されたが、現在は町の外れにバイパスも通っているため、和田宿内は静かなたたずまいを残している。
旧道は新和田トンネルに向かう有料道路の分岐点から、直角に右に折れ、樹海の中をすすむ。カラマツやナラ、ブナなどの雑木林のなかを行くと、やがて茅葺き屋根の「永代人馬施行所」に出る。
峠の途中にある「永代人馬施行所」 (接待茶屋跡)
この施行所は中山道の旅の難儀を助けようと、江戸の豪商かせや与兵衛の寄付金により設けた接待茶屋跡である。文政十一年(1828)に設置され、峠を越える旅人に冬の間、粥と焚き火、牛馬には年中桶一杯の煮麦を施した。明治三年(1870)まで続けられ昭和58年に復元されたものである。
(01.11.02)
施行所跡を出て、すぐ国道と分かれ紅葉のなかの急坂を上ると、再び国道と合流し広い野原に出る。ここが東の餅屋跡である。中山道最大の難所である和田峠には、東西の峠の力餅を食べさせる茶屋が東に5軒、西に4軒、幕府の補助を受けて設置されていた。現在はドライブインが1件あったが、閉ざされていた。
旧道は直進するため、今の自動車道(ビーナスライン)の下を一回くぐり、三回横断する。やがて樹海が開けると峠(古峠)にたどり着く。峠には地蔵菩薩が朽ちて座し、左手の広場には御嶽山遥拝所が復元されている。晴れた日には、前方に駒ケ岳、御嶽山が見渡せるが、この日は前方の甲斐駒ケ岳、左手手前の八ヶ岳だけであった。
(つづく 次回は万治の石仏・下諏訪宿)