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「五街道をあるく」 夫婦二人旅
(その7)東美濃の小さな宿場町、大湫(おおくて)・細久手宿
ほぼ一年ぶりに始まった中山道(なかせんどう)の旅は、先ずは名古屋経由で中津川から大井までの10キロを歩く。 大井宿は創業350年余の旅籠屋(はたごや)「角屋」が「いち川」と名前を変え、今でも営業を続けている。その「いち川」に泊る。
つぎの大湫宿には食堂がないということを聞き、旅館で用意してもらった弁当を大湫の公民館で開き、細久手の大黒屋に向かう。
大井宿から十三峠を下った突き当りが大湫宿の本陣跡で、今は全校生徒三十人足らずの大湫小学校となっている。日吉高原に抱かれたこの小さな盆地には宿場町の家並みがひっそりと残っている。大湫宿の中心にある神明社の大杉は、樹齢千三百年余りの御神木で周囲11m高さ60mもある巨樹で街道を立ち塞がるようにそびえていた。宿の西にある二つ岩から少しあるくと、ここからは琵琶峠の石畳が続く。林の中を下っていくと、そこから先は心地いい舗装道路のハイキングコースである。
細久手は名前のとおり両側に山が迫り、街道の両側に民家が並んでいる細長い集落である。あまり古い建物の残っていない宿内でひときわ目を引くのが、今も旅館として営業している旅籠の「大黒屋」である。
ここは旅籠でありながら尾張藩指定の本陣で、卯達のある外観から上段の間の残る内部に至るまで、当時の雰囲気を色濃く残している。安政の大火後の建物といわれるため、約百四十年経っている。大井を出てから細久手に至るまで宿泊施設は一切無いので、中山道を歩く人にとっては貴重な宿屋である。実は二、三日前に申し込んだが、断られ予定を変更した。外国人の団体客であることが大湫宿で出会って分った。大井・御嵩(みたけ)間は明治以降、釜戸(かまど)経由の道に戻り大湫・細久手の二宿(じゅく)は近代化から取り残されてしまった。そのことが結果的に琵琶峠の石畳や大黒屋の建物を残すことになった。わずかの旅人しか訪れないこの山あいの旅籠の布団にくるまって泊まり、風雅な旅を続けている外国人の団体客に敬服させられた。
細久手から御嵩まで中山道は幾つもの峠を越える。鴨之巣(こうのす)の一里塚は左右の塚がずれている珍しい塚で、ここからは快適な下りが続く。あまり急坂のため牛が鼻をこすったといわれる「牛の鼻かけ坂」を下ると、急に視界が開け山あいの道の終わりを告げる。
宿泊した細久手宿「大黒屋」の内部
往時のまま保存されている。食事はこの広間でとる(02.10.5)
物見峠付近
細久手から御嵩までは幾つかの坂をゆく(02.10.6)
(次回は番場宿から摺針峠へ)