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「五街道をあるく」 夫婦二人旅

(その8)番場宿の蓮華寺 (れんげでら) から 摺針峠 ( すりはりとうげ ) へ

(株)トウチュウ 青木 正

 

今回の街道歩きを始めるまで、番場宿の名は聞いたが何処にあるのか分らなかった。中山道の旅は美濃の垂井宿から、近江の国に入り番場宿についた。番場宿の入口に立つ「汽車汽船道」を通り、JR米原駅までわずか2キロ足らずのところに番場宿はある。

 「ところは 江州 ( ごうしゅう ) 、坂田の 郡 ( ごおり ) 、 醒ヶ井 ( さめがい ) から南に一里、磨針山の山の宿番場でござんす」と、番場の名は長谷川伸の『瞼の母』で知られているが、宿内には北条仲時一行が自刃した八葉山蓮華寺がある。蓮華寺は宿内の中ほどから左に入り、東名高速の下をくぐると山門・ 勅使門 ( ちょくしもん ) が見えてくる。

 本堂の裏山の谷には小さな五輪の塔が立ち並んでいる。元弘三年(1333)5月7日の京都合戦に敗れた六波羅探題・北条仲時は北朝の天子光源天皇、後伏見花園二上皇を奉じてここ番場に着いた。しかしここで南軍の重囲に堕ちる。やむなく蓮華寺に王座を移し、戦いたるも再び破れ、本堂前庭にて仲時以下432名全員自刃する。境内の一角にある大小さまざまな五輪塔の群れは、当時の住職が深く同情し、その姓名と年令法名を一巻の過去帳に認め、お墓を建ててその冥福をともらう。

 裏山の裾に並ぶこの小さな無数の五輪塔は、彼らの墓碑といわれている。吉川英治の「私本太平記」により広く世間に紹介され、多数の拝観者があるといわれる。

 境内には、他に長谷川伸の戯曲『瞼の母』にちなんだ忠太郎地蔵尊が建立されている。長谷川伸の筆で「南無(なむ) 帰命(きみょう) 頂礼(ちょうらい)、親をたずぬる子には親を、子をたずぬる親には子をめぐりあはせ給え」と台座に刻んである。そして地蔵尊の足元近くにある玉垣内の塔は忠太郎の墓であるという。架空の人物の墓まであるのには驚かされるが、長谷川伸の『瞼の母』の原稿が埋められている。

 番場宿を離れ、道は名神高速道に沿って緩やかな上り坂となる。道は東名高速の上、トンネルの頂上に出る。小摺(磨)針峠である。小摺針峠から先の旧道は名神高速道路の建設によって消失しているが、高速道に沿うように平行した付け替え道路がある。道は下りとなり、右手に入ると、すでに彦根市に入り摺針峠への登りとなる。摺針の名は「針になるまで」といって、石で斧を研いでいた老人の姿を見て、青年層が自らの意思の弱さを恥じ、以後修行に励んだという故事に由来しており、この僧が弘法大師であるという説もある。峠からは「中山道第一」といわれる琵琶湖の展望が広がる。

番場宿・蓮華寺
番場宿・蓮華寺(02.10.22)  北条仲時ら430余名がここに眠る

(つづく次回は甲州道中・台ケ原宿)