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「五街道をあるく」 夫婦二人旅

(その11)芦野の遊行柳から白河の関へ

(株)トウチュウ 青木 正

 芦野宿を出て、枡形を西へすすむと国道のバイパスにぶつかる。ここを右折し、柳の植えられたバイパスを北に向い、田畑の中を数分も行けば「遊行柳」に出る。

 西行や一遍を慕う芭蕉が「奥の細道」の途中、芦野に立寄り「田一枚植えて立ち去る柳かな」の句を残した。現在の柳は何代目なのか知らないが、柳を囲んで根元には、西行の歌碑、芭蕉の句碑、蕪村の「柳散 清水涸 石処々」の句碑。そして遊行柳についての説明の石碑などおびただしい数の石碑が立ち並ぶ。遊行柳をみて板屋から高瀬までは旧道を歩く。峠に近づくにつれ、道幅は次第に狭くなる。峠手前の栃木県側には「境の明神」がある。松尾芭蕉が奥州に第一歩を印したのはこの境の明神である。

 芭蕉はここから北へ約800m先の白坂宿の入口近くから東へ折れて山あいの小道を通って、東方約4キロの畑宿に入り、白川の関を訪れている。近世の奥州道中は国道四号線と旧陸羽街道294号線が合流する白河の女石であることを聞き、最終到達地の女石を目指す。

芦野宿の遊行柳と石碑群

芦野宿の遊行柳と石碑群

五街道を踏破して、白河関跡に立つ

五街道を踏破して、白河関跡に立つ (03.11.5)

晩秋の「白河の関」逍遥
 五街道の達成のあと、タクシーを呼び白河駅からバスを乗り継いで白河関のある「旗宿」に向かう。
奥州三古関の一つ白河の関は、5世紀頃に蝦夷の南下を防ぐために勿来関とともに設けられた砦である。ここは東山道の終点であり、みちのく(陸奥国)の始まりでもあった。やがてその機能が失われ廃関となってからは、歌枕の関として再び知られるようになった。「都をば霞とともに立ちしかど 秋風の吹く白河の関」白河の関をもっとも有名にしたのが能因法師のこの一句。芭蕉は「奥の細道」のなかで「白河の関にかかりて、旅心定まりぬ」とみちのく路の第一歩を踏み出した地として記している。

 ボランティアの案内で、白河城主松平定信がこの地を白河関に相違ないと建立した「古関蹟」の碑や白河神社の建造物、紅葉真っ盛りの「空壕跡」、当時を再現した白河の関などを見ながら木立の中の遊歩道を散策し、芭蕉の「奥の細道・白河の関」の碑を見て帰途につく。秋の白河関跡のそぞろ歩きは、街道歩きの終末を沿えるにふさわしいものであった。

(つづく 次回は最終回・「附表」五街道完全踏破記録を掲載します)

 青木さんの「夫婦二人旅」締めくくりは奥州道中、季節は秋。芦屋から終点の紅葉の白河までの道中記です。奥州道中:前回の日光道中に宇都宮(日本橋から98km)から北に向い白河までの76kmを言う。