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恩師 鹿島次郎先生の思い出

株式会社 田口型範 社長
田口 順

田口 順 氏 故 鹿島次郎先生は、戦前の鋳物工業の第一人者であった故 石川登喜治先生(日本鋳物協会:現日本鋳造工学会:初代会長)のご尽力で創立された「早稲田大学鋳物研究所(鋳いも研けん)」に、石川先生の勧めで創立 2 年目の研究所に入 り、早稲田大学理工学部金属工学科名誉教授を歴任され、昭和 45~47 年には 第 11 代(社)日本鋳物協会会長を努められた。ご存命ならば今年満 100 歳(百 寿)になられる鹿島先生へのお祝いとして先生との思い出を、鋳造業界の本 流ではない模型製作業の私が投稿することをお許し下さい。とは言え、鹿島 先生のご専門はもともと化学で、鋳物研究所では本流の溶解・凝固等の鋳造 工学ではなく砂型鋳型を専門に生涯研究されたので、丁度良いバランスのようです。

 我(社)日本鋳造工学会の前身である(社)日本鋳物協会が記念すべき 50 周年記念大会を開催したのは昭和57年(1982年)5月であり、実行委員長は当時第15代会長 加山延太郎先生(早稲田大学教授)でした。その際、発刊された『(社)日本鋳物協会50年史』の【回顧録】の中に約2頁亘りる鹿島先生の寄稿文があります。今般私がこの「思い出」を書くに当たり、それを改めて懐かしく読み返しました。生前鹿島先生が何かに付けて(特にお酒の場で)話されていた事が記されていたからです。

「鋳物技術をもっと学問的に取扱えるようにしなくては、工業としての将来は無くなる」と云う石川先生の発案で鋳物研究所が設立されたのが昭和13年(1938 年)。

冶金科、機械科、電気科、応用化学の各科から実力のある教授が選ばれるなかで、唯一例外だったのが化学を担当し最も若輩の鹿島先生だったらしい。

更に「君は化学屋だから、この際鋳物用耐火物、勿論砂型材料も含めての研究を遣るように」と石川先生から指示され、確かに当時協会の講演会で鋳型に関する発表は5%位なので鹿島先生も決心したようです。

戦後建物だけは焼残った早大鋳研で研究らしき事は殆んど出来ず、手始めに手掛けたのが昭和20年の冬、鋳研の屋上で一夜放置すると出来た「冷凍鋳型」でしたが、鋳込み実験をしたくても残念な事に溶解する材料が無く無理だったようです。

 全共闘による東大安田講堂占拠事件で東大入試が出来なかった程騒がしい年、受験生だった私(後期 団塊の世代)が入学した当時の早稲田大学理工学部金属工学科は、お互いに余り仲は良くないが錚々(そ うそう)たる顔ぶれの教授が研究室を構えており、戦後の我国工業高度成長の意気込みを感じさせた。学年担任の堤先生、銑鉄鋳物の大御所加山先生、製鋼ダクタイル鋳鉄の草川先生、アルミ非鉄が専門の雄谷先生、加藤先生、葉山先生、上田先生等々、鋳造に関する基礎工学から実践的な鋳物造り迄全ての 分野の日本を代表する先生がおられた。その中で余り人気の無かった鹿島研究室を卒論研究室として選 んだのは、父が経営する(株)田口型範が主に製造している鋳造用模型に一番近い存在が鋳型砂と考えたからであった。そして卒論のテーマは『高周波誘電炉(電子レンジ)による砂型鋳型乾燥』であった。これは,現在(社)日本鋳造協会副会長の(株)キャストの酒井社長が鹿島研の研修生であった当時、研究していたテーマでそれを引継ぐ形となる。本当に鋳造業界は狭いと云うか、縁は深いと云うか、酒井社長と は今でも互に取引関係である。

 私としては少々恥ずかしい思い出も有ります。私の結婚披露宴でのこと、主賓の鹿島先生が「その年の4年生の卒論提出日近いある日、ゴルフ場(荒川河川敷錦が原ゴルフ場)に行くと、風呂場に何と新 郎の田口君がいた。卒論の締切りが近いのにゴルフをやるとは、この学生は大学に残るよりお父さんの 会社に入った方が良さそうだと思った」と大勢の出席者の前で正に披露されしまった事を今でも覚えて います。実は鋳型研究が主体の鹿島研は、鋳造工学ではマイナーで学生からは余り人気が無く、修士・ 博士課程の先輩は居りましたが鹿島研の跡取りを希望する学生はいませんでした。実力素質は兎も角、 私が希望すれば研究室に残れたようです。
 又、私の最寄り駅「川口」は、先生が通勤される JR 京浜東北線「与野」駅と大学の最寄り駅「高田 馬場」の丁度中間位置になり、私が在学中も(株)田口型範に入社してからも先生は何度か「川口」で途中 下車・立ち寄られ、私の父(平成 21 年 7 月没)と一緒に美味しそうに日本酒を飲んでいました。尋常 高等小学校の学歴の木型職人の父(貞一)と名門鹿島家の御曹司の学者(鹿島先生)、共にその道を極 めた者同士、酒が回ると意気投合していました。講義や研究室での難しそうな顔からは想像出来ない心 から楽しそうな笑顔でした。そして私には「これらかの若い人は猫の額の様な狭い早稲田弦巻町にいな いで、もっと広い世界に出て学ばなければいかん」と口癖のようにおっしゃつていました。

 私の記憶が間違っていなければ、鹿島先生が幼少時期(昭和初期)を過ごされた東京青山の邸宅には 庭にテニスコートが在ったそうです。私が大学 4 年生時に大学のテニスコート(現在の西早稲田理工学 部キャンパスの新しい厚生棟(学生食堂)の場所に在った)で何度か先生を交えてテニスを遣りました。 小柄で既に年齢は 60 歳を超えおられましたが、本当に無駄な動きが無く何時間でも続けられるプレー 振りでした。尤も先生の立っている位置を中心として半径 2m 以内に打たなければならず此方の方がか なり疲れましたが。

ゴルフは、先生と一度も一緒にプレーする機会が有りませんでした。前述のコースのメンバーで、ハンディキャップ委員長を務め、ゴルフバックはゴルフ場のロッカーに預けておいて大宮駅からのクラブバスに乗って歳過ぎ迄楽しんでいたと聞いています。アドレスしてからクラブを振り上げるまて大変長時間掛かり、一緒にラウンドしている人の中には「居眠りをしている」のではと思った方もいたと聞いております。

今から 13 年前 1997 年 11 月 9 日、鹿島先生の米寿祝いを川口にて開催しました。参加者は、勿論旧 鹿島研 OB、鹿島研内分析担当女性職員、金属工学科(鋳研)教授の方々、鹿島先生と親交の深かった 面々で有り、当日飛び込み参加者含めて総勢 70 名を超えて盛大にお祝いをする事が出来ました。先生 はすこぶるお元気で、杖も使わず 15 分間立ったままお礼のスピーチをされました。予想以上の出席者 で記念集合写真も 2 回に分けて撮る程でした。上段の写真が年齢的に鹿島先生に近い方々で、写真中央 の鹿島先生を囲むように葉山先生、草川先生、堤先生、渡辺先生、上田先生、石野先生、加藤先生等々 です。下段の写真は中江先生、玉崎先生を始め研究室分析の方々及び我々鹿島研 OB 等々の懐かしいメンバーです。 それから 2 年後の平成 11 年 6 月 29 日、広い庭園付きの鹿島邸にて卒寿を祝う会を草川先生、葉山先 生を交えて 10 人程の有志で内輪的な集いとして行いました。流石に足腰が弱くなり車椅子生活でした が、頭脳の方は衰えずあのキラキラ輝く目で楽しそうに懇談していました。

 昨年は私の結婚式の仲人をお願いした関平司氏、加藤先生と同期で大変お世話になった蟹江正浩氏、 お二人と取引上密接な関係だった私の父田口貞一が期せずして他界しました。戦後の鋳物造りに一生懸 命だった方々のことを思い出しながら恩師 鹿島次郎先生との記憶を紐解き思い出としてまとめました。 最後までお付き合い頂き有難う御座いました。

故 鹿島次郎先生米寿の祝い(1997 年 11 月 9 日)記念写真

参加者が多く2回に分けて記念撮影、以下に出席者名簿記載します。

鹿島次郎 武田幸夫 前川 保 佐多芳明 納谷喜郎 岩崎一男 川井恭子
葉山房夫 正木誠信 三木正光 小森谷肇 山口 進 山口 博 酒井英行
橋本鎌一 青戸邦夫 大泉平八郎 綾 元史 益岡満雄 田口 順 鞘師和枝
堀 二郎 上田重朋 渡辺侊尚 真田一威 寺垣俊久 田中和久 中田重徳
内山捨三郎 石野 亨 浅見彰一 猿井清司 中島 宏 西川浩二 吉羽元子
草川隆次
島田次男 錦織徳郎 玉崎洋一 裏辻俊彦 塩田正彦  
小汀正一
村木潤次郎 師岡利政 中山勝住 日下部新太郎 長谷川雅也  
関 平司
大澤晃三 土井栄一 高田孝保 久保田正明 上田広子  
堤 信久
加藤栄一 森繁 宮崎和也 中江秀雄 榎本新一  
長谷川利光
西尾正康 芦沢 厚 斎藤達衛 船橋輝泰 岡田眞一  

敬称略、順不同